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裏山考
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ご無沙汰しております!
今年もめいっぱいの夏が過ぎ、
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風、あざみ。

お元気ですか?

いろいろすっ飛ばし、最近のことです。

10月26日に行なう里山学校「里山ロゲイニング」の下見探検ということで、先週末、うちから隣の集落までの裏山を企画メンバーで歩いて調査しました。道なき山を、6歳から60歳までの男女7人で3時間ほどサバイバル。
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あまりに過酷で写真そんなに撮れなかった!笑

本当にエキサイティングな体験だったのですが、後日、今回のロゲイニングのコースクリエイターの米野さんより「あの裏山、人が入っている気配がないね」という感想をもらいました。
いろいろな山に入る機会の多い米野さんの感じたこと、ということもあり、むむ?と気になり、以来つらつらと考えていたことを、備忘録として記しておきます。
ながーーーーいです。


●使われていない裏山
他の地方、地域の裏山も、そんなもんなのかと思っていたわたしですが、意外にも「フツウはもうちょっと人の気配がある」らしい。「あえて具体例をあげるなら、林業だったり、しいたけ栽培だったり、山菜・キノコ採りだったり、単純に散歩やハイキングだったり・・・」とのこと。

そういえば、集落のひとが山に入って楽しんでいる様子は特に見られない。わたしたちはたまにこどもを連れて山に入ってゾクゾクワクワク探検するけれど、それほど深くには入らないし、誰かに出会ったことはない。せいぜい、タケノコ堀りをしているヒトを見る程度。

●昔はどうだったのか
そこで早速、近所で仲良くさせてもらっている小出さんに聞いてみました。(著書「週末は田舎暮らし」にも頻回登場している方です)
「小出さん、このあたりでは、昔から山にはあまり入らなかったのですか?」と。
すると、「いやー、昔はしょっちゅう入ってたよ」とのこと。以下。

・屋根が茅葺きだったから、山の中にある「茅場」まで茅を刈りに行っていた。片道30分くらいはかけて行って、持って帰ってた。あとは、薪炭の材を得るためにも入っていた。小出さんが中学生くらいのときには家の手伝いでそんな作業をやっていたということだから・・・今から50年?ほど前?(むにゃむにゃ)、つまり、ざっくり1960年代まではそういう暮らしだったわけだ。

・小出さんちの向かいに見える山の木は「うちの親が植えた」とのこと。下草刈りなどにもしょっちゅう行って手入れをしていたそうな。写真は、今も小出さんちにある、下草を刈るための鎌。柄が長い!
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・「その頃は木の丈が短かったから、山の雰囲気が違った。山の管理組合(にみんな入っているとのこと)が木を伐採して下に下ろすためのワイヤーも張られていた」とのこと。
今はコストがあわないから誰も木を伐って売らない。当然、木の丈は伸び、山は鬱蒼とし、「誰も用がないから入らねぇなあ」ということになる。

●山は変わった
先週末の裏山探検についての話をFBで投稿したところ、小出さんが「山は怖いですね」といったコメントをくださった。地元に昔から住む方が「怖い」と表現することに、はじめちょっとびっくりしたのだけれど、その理由がようやく分かった。昔は、山は、今みたいな雰囲気ではなく、もっと怖くなかったんだ。今は人気がなくなり、暗くなり、「以前より」怖くなった、ということなんじゃないか。
(あと、知らないヒトより、知るヒトの方が畏れや怖れを抱くというのはありますね。地元のヒトは得てして自然への接し方に用心深い。へーきへーき、という気軽な感じはない。)

●南房総だから?
さらに、うちの近くの山は、他の地方や地域より「とりわけ」入られていない、使われていないのだとしたら、その理由は何だろうと考える。

思い返してみれば・・・
春、ようやく茶色い地面から緑の息吹が見え出す頃、わたしが「きゃー!フキノトウ!セリ!」と興奮して採取にいそしんでいると、地元の方から「俺らはそんなに食べないなあ」「ほしいならもってけ。ここにもあるぞ」「そんなにうめぇか?」と言われることがけっこうある。わたしの場合はスーパーでけっこうな高値で売られている山菜がざくざくある環境に狂喜乱舞してるワケだけど、南房総は温暖な気候で、農業の適地だからか、わざわざ山菜をとったりキノコをとったりしなくても生きていけるから、興味も薄く、従って食糧調達という理由で山に入らないのだろうか。

そういえば、鬼頭宏著「人口から読む日本の歴史」を見ると、縄文時代の人間の食料自給の内訳でも山菜というのは食料のほんの数パーセントだったとある。山菜を得て暮らしをたてる、という場所は、裏を返せば、厳しい食糧事情なのだということかもしれない。

南房総に「山の必要のない暮らし」が定着していったのかもしれない理由のひとつに、なるだろうか?

●「山のある暮らし」がなくなること
この前の裏山探検は、「たかが裏山」なのに、けっこうなサバイバル感があった。
地図とコンパスだけを頼りに尾根を伝い、沢にくだり、廃屋を見つけ、竹やぶに阻まれ、獣道さえ見当たらない空間を彷徨った。(と感じたのはわたしの地図読解能力が低いからで、ちゃんと現在地を押さえながら進んでいるヒトはワクワクはあれど不安はなかったようです。地図読み重要!!!)

あの時、6さいのマメは、「道がない!」と不安におびえて、2時間を過ぎたあたりで号泣しはじめたんだよな。
道はヒトがつくったものだから、どこかに通じているはずだって、小さくても分かるみたいで。出口があり、里におりられる確信があれば、冒険もアトラクションのうちってかんじ。でも道がない場所には、その先の確信はない。ある程度の時間を超えると「帰れないかもしれない」という不安に押しつぶされるようになったんだろう。
わたしも、彷徨ったあとにようやく道を見つけたときは「ありがたい!」と思ったもんなあ。

山はきっと昔から、畏れを感じる場所であったはずだけれども、それでもヒトは山と関わりを持って暮らしていた。暮らしの中でその必然があった。苦労してつけた道だってあったはずだ。それがいつからか、薪炭を使わない暮らしになり、茅を使わない暮らしになり、畑を荒らす獣たちだけが棲む場所となり、「怖い、行く必要のない、年々荒れていく」場所となっていった。
しかもそうなってから、たったの50年くらいしかたってない。

道も消え、こんもりと閉じた裏山は、ますますブラックボックスになっていく未来に向かってまっしぐら。
そういう方向にいっちゃって、いいかしらね?
どうなんだろう。

●「山のある暮らし」と反対側にあるもの。
人間が山のある暮らしから離れていき、向かった先は「都市」的環境。
ここで、できたてホヤホヤでいただいた三浦展さん著「新東京風景論」を参照する。(この本めちゃくちゃ面白い)
都市は、ショッピングモール、再開発された駅、イケア・・・すなわち出入り口がごく少ない、ベルトコンベアーのように迷わず楽チンに目的にたどりつける’箱’のような空間をつくり続けている、と書かれているが、まさにわたしもそれを実感している日々だ。都市だけじゃない、館山のカインズホームやコメリだっておどやだって、‘箱’だな。(そういえば、南房総で雑貨品を買うときなどに小売店をまったく利用していないことに気づく。)

そして、生活者は、でっかい箱の中だけでいろいろな用が足せて、迷うことも心踊ることもなく過ごす感覚に慣れていくワケです。管理側は管理しやすく、使い手は楽チン、という一見ウィンウィンの空間にね。

さらに文中には、地下通路を人々の流れに乗りながら歩いていると「自分がまるで排水になったような気持ちになった」と、ある。
排水・・・重力に従って下へ下へと流れる排水のように、人々から「意思をもって動く」自由を奪う、再開発駅などの空間を思い浮かべる。
一方、都市の‘箱’は、「迷わない」「分かりやすい」として評価される。そしてますます、その分かりやすい、単純な、一方通行のベルトコンベア的な空間が増産され、その窮屈ささえ感じずに楽チンに生きていくことになる。
そして、ヒトは考えて動くことをやめてしまう。排水でいいじゃん。不都合ないじゃん。って。

●排水になりたくない!
わたしもけっこう、排水化していることがよくあるんだけれどもね。
急いでいるときは、分かりやすい一方進行の駅がありがたかったりするんだけどね。

それでも今一度強く思うのは、大きな構えとしては、「排水のように」考えることをやめて低い方向へと流れていく箱的都市をつくる方向に、諾々じゃない方向で生きてみたい、ということだ。
楽チンを得ることで、どんだけのものを失っているかを考えりゃ、損得勘定でも排水ヤダ派になるよ。

昔からそう思ってたワケではない。
里山暮らしを8年続けてきて、最近、いよいよ自分の感覚が本質的に変わってきたせいだと思っている。基本的に超のつく無精者で、やらなくていいことは極力省きたい性質のわたしが、手間のかかるこの暮らしを飽きもせずに続けているのは、「排水」のように楽チンではないこの手間のかかる暮らしや空間が本当に大好きだからに他ならない。

楽チンがないことで得ているものは数え切れない。
この手のかかる環境はしかし、すごい情報量がある。息して、目を開いて、歩いているだけで暇になる暇がない。
空はいろんな色に変化するし、無数の蜘蛛が幾何学模様の巣をはりめぐらしているし、足元で飛ぶ虫の顔をじっくり見ていたら日が暮れそうなほど興味深いし、柿の実の色、土の匂い、いろんな生きものの音、これらを感じているだけで感動がむこうからやってくるんだから、心は常に、他者への思いに満たされるという次第。

昔はそういう情報をキャッチするセンサーをもたなかったから、俗に言う「癒される」感覚だけを強烈に感じていたけれど、最近ちょっと、見えるものが増え、聞こえるものが増えてきた。(この感性の師匠は本間さん。彼は圧倒的な知識により感性全開になってるヒト。)そういう感性を使わずに生きてきた30うん年間、もったいなかったなあと思う。んで、わたしには何の能力もないけれど、この感性を起こして使ってやったことで、おそらく死ぬまで退屈や空しさとは無縁になったことに、すごい感謝している。

’箱’が排除していった面倒をすべてつめこんだような、里山の空間は、そんなところだ。

●山を知ろう。まずはそこから。
ええ、、ちょっと興奮してしまいましたが、話を戻します。

「山のない暮らし」で不都合がない、でも、だからってエンガチョにしていいと思わない。
だって、そういうものを切って、切って、切っていく暮らしの向かう先は「排水」だよ?

そこで、さあこれからどうしましょうということを考える。
山と、自分を、どういう回路でくっつけていけばいいかと考える。

できるだけ、誰でもできることから考えると、だな。
資金も設備もいらない、身一つでできるのは、まず「山を知る」ことかな、と思う。
山に入り、山を知る。

方法はいろいろあるけれど、南房総リパブリックで昨年実施した「裏山ハイク」、そして10月に行なう予定の「里山ロゲイニング」はその試みにあたると思う。
山に入り、山を歩き、その荒れた姿も、時折出くわす神聖な美しさも、自分で経験する。尾根っていうのはどんなところで、谷っていうのはどんな状態かを、地図と見比べながら知っていく。ヌメヌメのぬかるみにハマり、平坦地で足取りが軽くなり、イノシシになったような気分で山を歩いたり這ったりしていくと、山の凹凸の高低感が体に刷り込まれていく。
都市生活では、体験し得ない。富士山に登るのともちょっと違う。
情報のない場所に踏み込んでいくワクワクやドキドキ、そして山から出たあとにふたたびそれを見上げたときの感慨は、体験した人じゃないと分からないものだ。(大げさ風だけど大げさでもないよ)

加えて、詳細が見える眼を持つようになれば、もっともっと楽しめると思う。
今回、里山ロゲイニングの下見に同行したニイニ(もう中2です)が一瞬足を止めて「あ、カンアオイだ」と見入っていた。
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カンアオイは昔から日本で栽培されている古典植物のひとつで、徳川家の家紋にもなっている。薄暗い山の中で生えている地味だけど美しい葉だ。わたしは以前、八王子までカンアオイを探しに行ったことがあるので、いつだったかこのあたりで初めてカンアオイを見つけたときにはすごく感動した記憶がある。
これはほんの一例だけれども、知らなければ目に入ってこないもの、知らないで踏んじゃったりするものって、きっとたくさんある。里山学校の先生である本間さんといて何が楽しいかって、彼のセンサーにひっかかってくる生きものの話を聞いてそれらを知ることで、見える風景が変わることだ。センサーが働かない状態で見える風景と、まるで鮮やかさが違う。ワクワクや発見の量も段違いだ。

さらに、山の歴史を知るヒトと一緒に歩くのも面白いと思う。敷地境界線がわりに植えられた木を発見したり、昔の「茅場(茅のとれるところ)」を教えてもらったりしながら、昔のヒトの生活をトレースして、想像する。どれだけの距離を歩いて茅を運んだのかということを実感したり、中学生の子がそれをしていたということを思ったり、今のこどもたちが部活やゲームをしたり塾に行ったりする時間を、山の中を歩き草を刈り生活をたてていくために自然と触れていた、ということの違いの大きさを知る。
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そういえば、以前南房総市長とお会いしたとき、「わたしはマムシのいる場所は、匂いで分かるんです」という話をきいた。経験を重ねることで分かること、働く感覚があり、その感覚を持っていることで行動の自由が広がるのだと思った。だってわたしにはマムシの匂いが分からないから、藪という藪に警戒してしまったり、あるいは不意にマムシに出くわしてびっくりしたりするからだ。

山を知る。
考えまくって、感じまくって、場所の情報を得るということ。
そのあと、何がしたくなるかは、そのあと考えてみよう。
まずは体を山に入れよう。
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わたしは排水になりたくない。
だから、まずは「漠然と見上げるだけの山」から、「歩ける山」に、「楽しめる山」に、その存在の質を変えたい。
現代において必要のなくなった山のありようはどう変えられるか、それとも変えられないか、と手詰まり感でいっぱいになる前に、自分を変えることならできるかもしれない、と思う。


・・・と、ながながと、里山ロゲイニングの下見で考えたこと、おわり。
文体も内容もやや崩壊していますが、ご勘弁を!
とにもかくにも、次の里山学校が楽しみです。
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by babamiori | 2014-09-18 13:45 | 南房総のこと



ひょんなことから、南房総に8700坪の土地を手に入れてしまいました。平日は都心で建築ライター・コーディネーターとして働き、週末は南房総で野良仕事。ちょっとムリして始めてみた二重生活ですが、気付けば主客転倒で、どっちがメインの住まいかわからなくなっています。田舎暮らしの衝撃と感動、苦悩と快感をそのまま綴ります。 ニイニ中3、ポチン5年、マメ1年。

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